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会長インタビュー


平成24年10月

インタビュアー 当会理事長 遠山 衛

―遠山
井上先生、本日はありがとうございます。
年譜を拝見して琉球の伝統武術(武器術、徒手術)の保存と振興のために先人先師の御業績、そして井上元勝先生の許にその時代時代を真摯に真剣に努めてこられた会員に敬意と感謝の気持ちで一杯です。
さて、その中で、井上貴勝先生は御先代の後を継承され1993年に会長に就任されて20有余年になられます。この節目に、これまでを振り返り、会長から直接にお話を伺い、その内容を次代に向けて発信しておくことは必要だと考えこの機会を設けさせて頂きました。
よろしくお願いいたします。

―井上
遠山理事長、この機会をセッティング頂いたご配慮に感謝いたします。先代、最高顧問等からの話も含めて、会のため、会員のために参考になればと思います。
就任時は38歳でした。当時、既に国内・外に基盤を持ち活動を展開しておりました。先代が体調を崩され入院されました時は、其の使命を継承しなければという決意でおりましたことを振り返ります。
先代ご他界後は、会長を支え、会を支えてきた理事長、総事務局長、総事務局海外担当、師範、支部長、すべての会員諸氏の惜しみない協力があってこそと思います。言葉では言い尽くせぬものがあります。
特に先代の直門である師範は今、70代前後の年齢です。高校生時代に入門して以来、先代に師事をして多くの事を学ばせて頂いたと感謝の念を持ち、その御恩に報いるためにという尊い気持ちで現在も一生懸命頑張っていることを嬉しく有難く受け止めています。

―遠山
井上元勝先生が武術を始められるきっかけはどういう経緯があるのでしょうか。

―井上
まずは先代の父、私の祖父になる三郎の導きがあると思います。
三郎は戦前、軍人で貴族院議員でした。三郎・千代子の間に4人の子供たちがおりましたが、先代は次男です。
ちなみに長男は東京大学名誉教授。古代史の研究では大変有名で父とは年子の兄でした。1961年8月から約1年間、Visiting lecturerとしてハーバード大学に奉職しました。晩年は千葉県佐倉市の「国立歴史民族博物館」の設立に頗る尽力し、1983年3月18日の開館を目前にして2月27日に永眠致しました。65才でした。初代館長になっております。
先代の両親は、幼少時代からスポーツや武術に接する機会を子供たちに与えました。
小さいころは体が弱かったが、負けず嫌いの性格で自ら自分を鍛え、学生の頃には誠に立派な体格となりました。相撲大会、スキーの大会、レスリングの大会などにも参加をして活躍しました。
身体を動かすことに関心があったことは確かです。
1935年(昭和10年)代に三郎の紹介で藤田先生とご縁を頂きました。藤田先生とは軍の関係を通じてということもありましたが、また井上家及びその親戚の家とも親しくしておられました。良く言われるようなガードマンということではありません。人生、或いは、諜報関係等にかかわる明快な相談役的立ち場もお持ちのお方でした。
先代が大学在学中に第2次世界大戦が勃発し、学徒動員で繰り上げ卒業と同時に近衛歩兵の部署に属し、次いで仙台予備士官学校に入校。その後、戦地ビルマに外征し、ビルマインパール作戦に参戦しました。 雨季には体の半分までを水に浸って耐える厳しい環境、食糧輸送なく米粒3粒でも重たいと感じる程に極度の疲労状態、マラリアなどの病気や激しい銃撃戦によって多数の死者を出しました。白骨街道と云われるくらいに悲惨な状況にあったと聞いております。敗戦と同時に英国軍の俘虜となって服役後、日本に帰国出来ました。自宅があった東京は空襲により完全に消滅・破壊。戦争の悲惨さをかみしめながら、生き抜くことが出来た事を神に感謝すると共に、自分のこれからの余生をどう生きるか、就職が決まっていた外資系の会社も本国に引き上げました。
結果、この荒廃した日本の将来を背負って立つ青少年達を武術を通じて育てていく事を決心され、武術の勉強を再スタートされました。戦火により全焼した当時の井上の別荘跡地(清水)に建てた自宅の中にプライベート道場を作りました。
先代が再スタートするにあたっては、藤田先生の許でご指導をいただき、また藤田先生のご指示で空手は小西康裕先生、琉球古武術は戦前拝眉した平信賢先生に師事をすることになりました。以降、行年76才(満74才)で他界するまで自身の修行鍛練と後進の指導育成、保存振興のために生涯を捧げられました。

―遠山
井上元勝先生は唯心という言葉を使われております。これはどういう経緯からでしょか。

―井上
先程申しました清水の自宅内にプライベート道場を作られました。しばらくして、甲賀流第14世の藤田西湖先生のアドバイスを仰ぎ、当時小西先生の客師範の袖山豊作先生との連携もあり、「唯心」という名前を道場に付けられました。
「唯心」とは仏教の経典にも出てくる言葉ですが字が表現する通り、心の醸成が大事であるという意味です。なぜこの言葉を選ばれたのか。そこには「悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない。そのためには平和を願う心の醸成と敗戦国を復興する信念が大事である」と。
唯心はその強い願いを表す一番適した言葉であったからと聞いております。
「未来を築く日本の子供たちの為に」が、海外にも次第に普及する中、それは「世界の子供たちの為に」となっています。
ちなみに子供たちは道場の稽古の始まる前に次の5つのメッセージを唱和し育ってまいりました。
1.礼儀を正しくしましょう。
2.心身を清潔にして整頓をこころがけましょう。
3.人の言う事をすなおに聞き一生懸命努力しましょう。
4.道場員はお互いに仲良く助け合いましょう。
5.空手を通じて立派な少年になることをこころがけましょう。
先生が常に言われたことは、技の前に心を大切にということ、そして学んだことを自分の生活に、平和な社会に活かしてほしいということ。
そのための指導、普及です。
―遠山
琉球古武術保存振興会の系譜についてお伺い致します。

―井上
これは平信賢先生から井上元勝先生へ直筆の系譜です。
油屋山城先生 − 山根知念先生 ― 屋比久孟伝先生 ― 平信賢先生 ― 井上元勝
それ以前につきましては佐久川先生はじめ添石先生、知念志喜屋仲等の先生方のお名前は有名です。
平信賢先生には沖縄、本土を含め各地に門下がおられました。
その中で、平信賢先生は井上元勝に唯一8種の武器からなる40数種の全型皆伝を授け、免許皆伝範士第1号を授与されました。平信賢先生は、琉球の伝統文化である琉球古武術を沖縄だけでなく、本土、そして世界に普及したいという夢を持っておられました。
そして衷心より井上元勝へその夢を託されました。その願いはこの系譜を含め平信賢先生から井上先生に宛てられた書簡の中で切々と述べられておられます。その書簡百通ほどは私の手許に保管しております。
本来、各地に伝承される伝統芸能文化はその地の人々に伝承されていくのがベストだと思います。ただ、平信賢先生は沖縄のみならず本土でも生活をされる中、ヤマトンチュ(本土の人)、ウチナンチュ(沖縄の人)を超えた大局の中で、場所ではなく誰に伝えるかという観点に立ち後継者を決められました。
平信賢先生による直筆の系譜

前列:左より、松本氏、井上元勝、平良氏
後列:左より仲宗根氏、永石氏、金城氏、赤嶺氏、仲本氏
1970年(昭和45年)9月3日に平信賢先生がご他界されましたのち1971年(昭和46年)の故平信賢先生追悼古武道空手大会(於 琉球新報ホール)、1972年(昭和47年)の沖縄復帰記念琉球古武道演武大会(於 清水市民会館)等の合同行事などを開催しました。その後、沖縄で比嘉祐直先生の御立合いの許に、赤嶺栄亮先生、井上元勝が集まり、沖縄は沖縄、本土は本土で琉球古武術の振興に務めていくことを確認しました。
その直後も、来日された比嘉祐直先生は清水の井上自宅へ御来駕になり松本先生・井上と再度懇談し追認をされました。

―遠山
琉球古武術保存振興会に名称を変更した理由についてお聞かせください。

―井上
当時は、沖縄と本土で琉球古武道保存振興会という同じ名称で活動をしていた時期があります。1970年代から海外修行者も次第に増える状況の中、沖縄の活動と混同が無いようにするため、琉球古武術保存振興会の名称に変更し現在に至っております。術も道も同じですが、平信賢先生は恩師屋比久先生の「琉球古武術研究会」と同様に術への変更を生前考えておられたことは術に変更する大きな理由の一つにありました。

―遠山
琉球古武術において平信賢先生、井上元勝先生の御業績についてお聞かせ下さい。

―井上
平信賢先生の御業績は、屋比久先生の許に修行を重ねながら、当時の沖縄各地に尚残存・埋没していた琉球古武術の型と技を尋ね求め、最終的に8種の武器を使用する40余の型を集大成されたことであります。
その中のサイ術の型:慈元の慈は慈愛の意味です。元は井上元勝の元です。
井上先生の御業績のひとつは平信賢先生から「型の意味が自然と理解できるような技術体系を確立して欲しい」との師命を受け、8種の武器ごとの使い方、基本組手、分解組手術との一連の技術体系を長年月かけて確立されたことです。
次に、平先生から皆伝を受けた四十数種の型の保存本「琉球古武術」上巻、中巻、下巻計3巻の出版、そして8種の技術体系の基本技を纏めた「天の巻」(棒術、釵術、トンファー術、ヌンチャク術)、「地の巻」(鎌術、鉄甲術、ティンベー術、スルジン術)の発刊です。
型保存本は「これらの型は沖縄の文化遺産である。私すべきものでない、書にして永久に保存すべきものである」との考えにより、非常に多額の私費の捻出に配慮してようやく発刊されたものです。

―遠山
次に空手の系譜についてお伺いいたします。


―井上
次の系譜となります。
松村宗棍

糸州安恒

富名腰義珍

小西康裕
(客師範 袖山豊作)

井上元勝
―井上
上記の系譜はあくまでも師事した先生の流れであります。小西先生の良武会は現在御令息の小西健裕先生が継承をされておられます。
先代小西康裕先生から「良武会東海地区本部長」並びに八段位を授与されておられます。先代の道場の内容は、藤田先生、小西先生、平信賢先生の御教えを学ぶ道場になりました。藤田先生からは「日本武術研究所東海支部長」を任命されました。
しかし、1970年代、次第に琉球古武術が盛んになる中、唯心会の中に琉球古武術保存振興会を置いておくことはその発展を妨げるものという考えから、琉球古武術保存振興会を独立した会と位置付け、空手の流派に関係なく勉強できる位置づけとし、現在に至っております。

―遠山
井上元勝先生の思い出をお聞かせください。

―井上 そうですね。やさしく温厚ですが厳格でした。厳格というのは先ず自分自身に対して常に厳しかったことです。毎日黙々と稽古する姿が目に焼き付いています。晩年、よく「最近はビデオで撮れる時代になった。しかし身体で覚えて毎日練習することが武術で一番大切なこと」だと常に云われておりました。
日常生活では愉快な父でしたが、寡黙な方でした。道場の稽古を終え、和服に着替えて門下を連れて飲みに行くのは楽しみにしていました。先代の兄弟の仲も良く、甥、姪は「元(もと)おじ、元(もと)おじ」と慕われていました。
学生時代、復員後にはドリームキングのニックネームがあったように、夢を与える楽しい父だったようです。
手先も大変器用でした。ビルマ戦線で敗戦となり英国のマウントバッテン卿の傘下で日本兵が労働をしながら余暇を見つけ、英軍が使用済の古線類を利用して自分でギターを作っていました。音楽隊を組織し、バザー、レセプションに英国側から呼ばれて演奏したこともあったそうです。この手作りギターは手許にあります。武器作りにもその器用さは活かされていたのだと思います。
絵も上手で美意識感覚に優れていました。
耐えること:戦争時代、生き抜くことができたのも、天命でありますが、思考と忍耐の精神力があったことは大変大きな力でした。敗戦後生命があったことはすべて「余生」と云っていました。
人々が自然に集まってくる。カリスマ性のある人物であったと感じています。
軍隊にいた時も帰国してからも部下の方に慕われていました。

―遠山
藤田先生の思い出がございましたらお聞かせください。

―井上
温かく厳しいお人柄です。
先代を息子のように、母を娘のようにかわいがって下さったと聞いております。
また藤田先生は、先見の明、千里眼、解釈力、治癒力に不思議な力を持っておられたようです。
琉球古武術の平信賢先生を紹介されたのは藤田先生です。
当時、琉球古武術を勉強している人は少なく、これから発展していくものと感じておられたからとのことです。藤田先生は武術界のことを良く知っておられましたし、先見の明がおありでした。千里眼でしょうか。
母に「懐妊しているね。男の子だね。」とまだ母が気づかないうちにお言葉を頂いたとのことです。私の本名は藤田西湖先生が名づけて下さいました。
下の写真は1950年代の後半、藤田先生が清水の家においでになられた時の写真です。
左は私ですが、孫のようにかわいがって下さいました。ちなみに井上貴勝の貴勝は武道名です。
藤田西湖先生と井上貴勝会長
藤田先生は1965年(昭和40年)に御永眠されました。私が11歳の時でした。
井上家、親戚を通じましても、戦前より長きにわたりご交流ご指導ご温情を頂いて参りました。
藤田先生の奥様、御令嬢、御令孫の代まで御交誼を頂いて参りましたことは貴重で、有難いと感じております。

―遠山
ご先代は、藤田先生からどのような内容を勉強されたのでしょうか。

―井上
手裏剣術(心月流)、南蛮殺当流、縄術、杖術などの総合武術です。
南蛮殺当流の系譜は岩田万蔵先生に伝承されました。
藤田先生は井上先生にも同じように指導をされました。
先代は藤田先生の御教えを唯心会の体術の根本として保存振興されています。
心月流手裏剣術は藤田先生から師範の認可を頂きました。

―遠山
手裏剣術の心得はどういうものでしょうか。

―井上
先代は「如何に力を抜くか」を云われていました。

―遠山
井上先生も手裏剣術を稽古されたのでしょうか。

―井上
手裏剣の稽古は元勝先生より指導をいただきました。

―遠山
藤田先生はじめ色々な先生がご来清されたのでしょうね。

―井上
藤田西湖先生、平信賢先生、小西康裕先生、比嘉祐直先生、小笠原清信先生、植芝吉祥丸先生、塩田剛三先生、黒田市太郎先生をはじめ古武道界、空手界の錚々たる先生方が多数ご来清されました。そうした武道環境に恵まれたことを感謝いたしております。
先代は実際に本部朝基先生、摩文仁賢和先生にお会しています。富名越義珍先生は慶応大学で拝眉したとのことです。
写真左より井上貴勝、井上元勝、藤田西湖先生、黒田市太郎先生
写真左より井上貴勝、井上元勝、藤田西湖先生、黒田市太郎先生
(昭和34年(1959年) 清水の旧宅にて)
―遠山
平信賢先生のことにつきましてお伺い致します。

―井上
平信賢先生(1897〜1970)は沖縄の久米島のご出生です。
平姓の他、平良、前里(母方の姓で戸籍姓)とも名乗られました。
青年期の労働従事で片足を骨折されたため、歩行の際、少し後遺症がありましたが、
若い時の御写真を拝見すると誠に筋骨隆々とした逞しいお姿です。
平信賢先生の写真
戦前は本土にも滞在され、仕事に従事されると共に屋比久孟伝、富名腰義珍、摩文仁賢和、藤田西湖諸先生と交流の機会を得ておられます。
富名腰先生の元で空手の普及にも努められました。
群馬県伊香保に在住の頃は、指導と共に日産自動車の関係に勤務して大型車の運転並びにT型フォード車の解体・組立てができたという緻密さでした。筆まめで書簡をよく書かれ、先代に送って下さいました。その御書簡は手許に保管しております。
歌舞音曲にも優れ、仲々の達人でした。
1940年(昭和15年)に富名腰先生の御助言もあり沖縄に帰郷されてその生涯を琉球古武術の保存振興のために尽くされました。

清水に御滞在の時には自宅の横にありました「慧光庵」(けいこうあん)という離れ、又は本宅に宿泊されました。
平先生がお泊りになられているときは良く遊んでいただきました。当時、清水に市電が通っていました。先生と二人で電車に乗って清水駅前通りなどにご一緒に行ったことなどを思い出します。長い時は2ヶ月は滞在されました。そして時にマンツーマンでご教授下さいました。

1970年(昭和45年)は平信賢先生がご他界の年になりました。沖縄のご門下は日々訪問されました。又、先代も平先生の許に8月より1ヶ月、沖縄で寝泊まりして御看病に日夜お尽くししましたが、永別となりました。
平信賢先生制作による空手古武道記念写真集より、釵とトンファーの写真
平信賢先生制作による空手古武道記念写真集より(抜粋:組手右 妹)
先代は、平信賢先生の道場建設、御高著の発刊をはじめその資金を調達すべく奔走、捻出に苦慮していました。平信賢先生と先代の師弟の絆は深く、またお二人の先生の御業績があって、現在の琉球古武術の礎になっていることをつくづくと肝に銘じております。
平先生は諺に「親子は一世夫婦は二世主従は三世」と云われるが「師弟は三世だ」と常々云われておりました。
平信賢先生には、唯心館道場のためにわざわざ御歌を作って下さいました。
平信賢先生による直筆の作詞 唯心館道場
―遠山
小西先生との思い出をお聞かせください。

―井上
私がご先代に直接お目にかかる機会は藤田先生、平先生より少なかったと思います。1960年代米国に出張された時、1970年代、2番目の道場が設立された時、直接の一番の思い出は、1981年私の結婚式で乾杯の御発声を頂きましたことです。御子息の小西健裕先生、奥様とは長く御交誼を頂いております。
小西健裕先生には当会の相談役として御尊名をいただいております。

―遠山
井上貴勝先生と武道の関わり合いというのはいつごろからでしょうか。

―井上
父が武道教授でしたので、生まれた時から武道の環境の中で育ちました。先代は家の中の一部をプライベート道場にして修行しておりました。

―先代のプライベート道場で手裏剣投げの練習―

= 倉庫二階の道場、中央:妹=
父を敬い慕っていました。振り返れば、幼時より先代のマンツーマンの指導を頂いて参りました。
中学の初めには父に対する言葉使いでも敬語を使っていました。

井上貴勝(13歳:1967年)
師という意識がかなり芽生えていたのだと思います。

―遠山
御先代の審査とはどういうものでしたか。

―井上
先代は師から学ばれたように指導をされました。不定期にこの型、この組手術を見せなさいとも言われます。いつ云われても良いように準備をする、繰り返し、繰り返し学んだ内容を復習することです。そのことを御教え下さったものと思います。

―遠山
学生時代に剣道を選ばれたのはなぜでしょうか。共通の点は何かありますか。

―井上
御承知の通り、日本では中学に入学しますと、部活動に入ります。私が入学した中学に柔道、サッカー、剣道の3つの部がありました。父に相談して、剣道部に入部しました。中学、高校、大学、社会人と続けました。
体の使い方、間合い、さばきなどは確かに活かされております。

―遠山
剣道、空手術、琉球古武術以外の武術を勉強することはありましたか?

―井上
手裏剣術、捕縄術等があります。唯心会と琉球古武術の内容が豊かで深く、その心髄を把握するのは生涯修練であると思います。

―遠山
道場の思い出についてお聞かせください。

―井上
はじめは家の板の間の部屋を道場にしていましたが、一番記憶に残るのは、やはり最初の広い道場です。自宅の横にあった倉庫の2階にありました。1958年(昭和33年)、私が4歳の時に正式に門下を公募致しました。以来、私が大学に入学するまでの間、身近にあった道場です。今は昔の俤はありませんが、道場の周囲には山、川、海、茶畑、蜜柑畑、試作のリンゴの木、沼地など多くの自然に囲まれていました。
元来、この地に建っていた家屋は第二次世界大戦の戦禍により全消失致しました。


=100年以上前の敷地一帯の様子、右には駿河湾が見える=
2番目の総本部道場は隣接の長者山を整地して建築した道場です。
1970年代から海外修行者が次第に来日しました。
オランダのロバート・スワッチス、マレーシアのジーチンミン、オーストラリアのポール・スターリン、英国のジョン・サリヴァン、カナダのシェーン東、南アフリカのエドワード・ジャーディン、フィンランドのイルポ・ヤラモ、その後はイギリスのジュリアン・ミードはじめ諸外国よりの来日がありました。
1990年、東京に移住と共に整理し、現在は静岡市埋蔵文化財センターとなり、静岡市の埋蔵文化財・歴史を学ぶことができる施設になっています。
3番目の総本部道場は、現在の東京渋谷にある蔵脩館です。豊栄神社様の境内にある道場です。比留間宮司が1975年(昭和50年)に設立された道場で、その年の開始時から琉球古武術の指導をスタートしました。それまでは清水を拠点としていましたが、琉球古武術普及のために新たに拠点とした次第です。清水と共にグローバルファミリーがその時代その時代に訪問して稽古した思い出があります。一番身近には、国際セミナー2010の閉会後、その中に帰国日時の延長を調達できた海外会員が100名近く集まってくれました。その時には二代目館長阿久津啓子先生、井上安代最高顧問の御話を頂戴いたしましたことは貴重な機会でした。

―遠山
型を学ぶ心得えについてお聞かせください。

―井上
先代は糸州安恒先生の「糸州十訓」を道場の正面に掲げられて大切にされておられました。
言うまでもないことですが、「糸州の十訓」に述べられているように心技の心構えは、伝承型として、武術の型として、同じ心構えです。
相伝の型・武器は厳然として存在していますが、時代の趨勢に伴い創作武器、創作型の出現は注意を要することであり、戒めるべきことです。
私たちは、井上先生の型と組手術の御教えをしっかり守っていくことが使命です。そこに保存振興の厳しさがあるのです。
勝手に創作するなど絶対に戒めなければなりません。

―遠山
1996年(平成8年)に唯心会型保存書を発刊されております。

―井上
首里、泊、那覇そして新垣各系の型計41種の空手の型を掲載した保存書です。空手を専門に勉強する人は必ずこの41の型は勉強しておくことを申されておられます。先代の命により、生前に、清水の道場に師範を集め型の収録を行いました。他界後になりますが、まとめを完了し、唯心会の支部長には配布をいたしております。

―遠山
現在、井上安代最高顧問は88歳でいらっしゃいます。お元気でおられますが、母君の最高顧問についてお聞かせください。

―井上
家族の為には勿論ですが、唯心会・琉球古武術保存振興会の為に先代、会員のために献身的に尽くしてきてくれたグローバルファミリーの母であります。
先代が特別に感謝状を贈った程でした。
一方、女学生の時代から80年にわたりライフワークとして取り組んできたのは日本史の研究です。西暦は2010年代、紀元では約2700年の日本の国史の流れの一つ一つであると云っております。著書もあります。
当時の女学校は十代の頃より武道も必須科目で大変有名な先生方にご指導を頂きました。弓、薙刀、棒術(杖術)その他です。先生方の御尊名はよく記憶していると云っています。加齢や大手術後は、目や体は不自由ですが、「終生、修学」の姿勢は見習うべきものがあります。
母が良く云う「時代により史跡の姿、形は異なっても踏みしめる足は曾ての時代がひびくもの。そしてあくまで追求に追究を重ね問題を熟知して解明を求めてゆく姿勢が大切」は現在生活の中においてあらゆる分野に自然に実行されているように強く感じています。

―遠山
武道を通じて学ぶことは何でしょうか。

―井上
長年の繰り返しですが、初心を忘れず、常に新鮮な、新たな気持ちです。

―遠山
それはなぜですか。

―井上
先代のお言葉通り、『常に足らざるの心』まだまだという気持ちがあるからです。常に謙虚に地道に繰り返すことしかありません。内容の質問に対して直ちに返答できることは不断の努力しかありません。
「武器がないから武器を勉強できないということもない。心掛けです。」
難しいことですが、続けていく中で質問、理解、体得があり、その繰り返しです。そしてその道は一生であるということ。このことはどの道においても同じだと思います。

―遠山
先生、今回は色々なお話を伺うことが出来ました。有難うございました。また、お話を伺う機会を持てたらと考えております。その節は宜しくお願いいたします。

―井上
遠山理事長、この機会をご苦労様でした。

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